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No.168知識国家を夢見た先覚者“渡辺洪基(わたなべ こうき)”
福井は日本のドまん中「日本のヘソ福井」第168回目は「知識国家を夢見た先覚者“渡辺洪基(わたなべ こうき)”」の話です。
明治18年に東京都府知事、また同19年に帝国大学(後の東京帝国大学、現東京大学)の初代総長に就任した渡辺洪基は、府中善光寺町(福井県越前市)出身です。渡辺は幕末の弘化4年(1848年)に福井藩士で医者の渡辺静庵の長男として生まれました。18歳で江戸に出て、福澤諭吉に師事して慶応義塾を卒業し、会津藩で英学校を開きました。戊辰戦争では、彰義隊に参加し幕府側として参戦。明治になり渡辺は、建白書を新政府に差し出して認められ外務省大録(議長級)として出仕。そして、元老院議官、元老院議副議長、駐オーストラリア公使を努める等、明治政府で重要な役職を歴任しました。
渡辺は、欧米に追い付くために「工業立国」の推進が必要であり、専門の技術者を補助する「工手(こうしゅ)」の養成が急務と考え、明治10年に工業技術者を速成に教育する夜学の工手学校(工学院大学の前身)を創設。学科は、土木、機械、電気、造家、造船、採鉱、冶金、化学の8学科です。私学の為に財源は授業料と寄付で賄われましたが、「技術立国」「工業立国」を民間の手でという経済人や企業が支援しました。支援者は、三菱財閥の岩崎弥之助、三井銀行の西邑虎四郎、沖電気の沖牙太郎、そして旧幕臣の渋沢栄一など錚々たるメンバーです。裕福ではないが向学心に燃えている学生たちは、昼間は丁稚奉公に出て働き、日が暮れてから夜間学校へ通って日々技術習得に努め、卒業後には生産現場などで活躍して近代日本の工業社会の裾野を支えたのです。
渡辺洪基の名前は、東京で活躍したために福井ではそれ程知られてはいません。しかし、技術立国日本の礎を築いた一人である渡辺洪基を福井人として誇りに思います。